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◆好き勝手生きてきていた私に転機が訪れる。23歳の頃、阪神淡路大震災で神戸に住んでいる親戚が被災してしまった。高速道路沿い下の一般道路に面していた自宅兼会社が地震によって高速道路が倒れたことで全壊。親戚はなんとか辛うじて無事だったが、その一方で肺ガン末期で駒込の病院に入院していた父親が他界。料理やサバイバル術、たくましく生きていく方法や戦闘術など父親は自身のクローンを作るべく英才教育を施してくれた私に色々教えを残してくれたことで、25年経った今でも父親の死を受け入れられていない。

母や兄は涙が枯れるぐらい泣くも私が涙を流せない理由はそこにある。「お前だけはタフに、そして正直に、何事にも負けない強い精神力で生きてくれ」と最期に与えられた父親からのメッセージが脳内から消えない、いや一生消してはいけない遺言だと受け止めているからだと思う。父親の死でバイトから正社員へ昇格させてもらった私は映画の仕事に没頭するも、趣味の延長上にあった格闘技関連事案を1年以内で全て辞める決断を。残された母親に心配かけさせたくないこともあり、正社員でしっかり働く方が安心してもらえるからとの判断。

25歳の時に映画評論家の淀川長治先生とたまたま観に行った映画の試写会で席が隣同士になったことから師弟関係の付き合いが発生。父親が他界したことで相談する相手もいなくなり、自分自身の進路、そして未来が見えなくなっていたところに現れた父親のような存在が淀川先生でした。テレビ朝日の日曜洋画劇場での優しそうな語り口調とは裏腹に大変厳しい人で、私は映画の知識が足りなかったりちょっと間違っていたりするといつも怒られてばかり。六本木の全日空ホテルのスイートルームを根城にしていた淀川先生のもとへ頻繁に通い詰めていたのですが、どうしてこんなバカな若僧に対しここまで面倒みてくれたり可愛がってくれるのか謎だったので一度聞いてみることに。

「人生の先輩からの教えや発言をしっかり忘れずメモして、それを胸に刻み込むお前の生き方に感心したからなんだよ」と。それは私にとって当然のこと。淀川先生は当時85歳だったか86歳だったかで、確実に御高齢者の方でもあったから人生の大大大先輩には最大限の敬意を払わなければいけなかったわけなんです。でも淀川先生からは「お前は性格的に評論家には向いてないが、ジャーナリストなど報道する側の”伝えていく仕事”を目指したほうが良い」とアドバイスを頂き、正社員で安定していたサラリーマン生活を捨て、個人事業主となるべく27歳で独立しフリーランスの道へ。

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